――砂糖と香辛料が混じり合うとき、そこに女の子が生まれる――
このブログは立談百景による「少女」をテーマにした小説を掲載しています。

2016年8月14日日曜日

【小説 / 宇宙少女シリーズ】 黒い水、アクアリウム。 [The Jet Black Honey.]


【あらすじ】
私は宇宙で満ちた金魚鉢を持っている。
しかし宇宙に魅了された私のことを、母は軽蔑するような目で見ていた。
そんなある日、妹が私の金魚を欲しいと言い出すのだった。


【概要】
ジャンル:SF(すこしふしぎ)
原稿用紙枚数:62枚
読書時間目安:30~60分
初版脱稿:2016年8月14日






黒い水、アクアリウム。 [The Jet Black Honey.]

 私は宇宙で満ちた金魚鉢を持っている。

 風鈴をひっくり返したみたいに丸い、人の頭がすっぽりと収まりそうなほどに大きな金魚鉢、その砂金をまぶしたようにきらきらと輝く水の中には、こぶ頭のかわいい真っ赤ならんちゅうが、暗黒物質につつまれて縦横無尽に泳ぎ回っていた。

 私は彼に「スオ」と名付けた。スオはその黒く透明な水の中で、尾びれをたおやかに揺らし、優雅に浮かんでいる。

 スオの尾びれがゆらりと動くと、水槽の中で惑星が動く。そしてスオは惑星の軌道に沿ってすいすいと宇宙を泳いで行く。大きな金魚鉢の中はスオの砦だ。惑星がくるくると回ると、つられてスオもくるくると回る。太陽の光で惑星が輝くと、スオの鱗もきらきらと輝いている。揺り動かすと全ての理が崩れてしまいそうな危うさで、水槽の中は正気を保っているみたいだった。差し詰め、スオはこの宇宙の秩序と言ったところだろうか。その秩序に破綻が訪れるとすれば、きっとスオが居なくなるときなのかもしれない。机の上の私のアクアリウムは、なんとなく現実じゃないみたいだった。重力が無いというだけで、そこは別世界になる。私たちがいかに重力という存在と身近にあるのか、それが知れてくる。

 宇宙なんてものが身近にあると、人間というのはたやすく綻んでしまうのかもしれない。私はそうだった。十四歳の私は友達付き合いもせず、学校から帰るとただただ毎日、自分の時間にはずっと金魚鉢を眺めていた。飽きもせず、飽きもせず、違和もなく。私の生活はこれで当然なのだと思った。

 そんな私のことを、ふと、金魚鉢の向こうから、スオがじいっと見つめていた。口をぱくぱくとさせながら、何かをつぶやいているようだ。何を言っているのだろうと思って、私もじいっとスオを見つめかえす。けれど私には金魚の視線を読むほどの社交性さえない。真っ暗な宇宙で泳ぐ金魚は、いったい何を思って私のことを見ていたのだろうか。

「あなた、私のこと好きなの?」

 空気のない宇宙に、私の声は震えず消える。スオは黙って金魚鉢を泳ぎはじめた。

「私はあなたのことが好きよ、スオ。あなたと一緒に泳いでいたいと思うわ。愛してるわ、恋してるわ、好きよ、好きよ。」

 こん、と金魚鉢を叩く。スオがぴくりと反応する。天の川銀河がゆらぐ。美しく正気を保っていた銀河が乱れる。近づきすぎた星々がお互いの引力でぶつかり合い、壊れてしまう。太陽系が消える。ブラックホールができる。中性子星が次の星を産む。――しかし死んでしまう。

 秩序とは整然としていることではなく、淀み、変化を伴いながらも正しい方向で回ることを言うのだろう。いくら壊れても、最後には帳尻が合うようになっている。かたちとなった宇宙は絶えず変化しつづけ、そのかたちは全て壊れていくものだけど、それが宇宙の営みなのだ。

 スオが泳ぐと、宇宙は途方もない速度で変化しているようだった。

 銀河と銀河は離れて、金魚鉢のガラス面に当たるとふわっと消えて、時々黒い粒になって、気泡のように宇宙の中に溶けていく。その溶けていくものを、スオがひょいと器用に捕まえる。あれはスオのエサなのだ。スオは流れてくる彗星も捕まえる。スオが彗星をしなやかな動きで口の中へ誘い込むと、光の尾がスオの口端からすうっと消える。スオにとっては藻か何か、そんなものに見えているのかも知れない。エサを食べると、スオは満足げに躯をひねる。尾ひれが舞って、宇宙の金色の砂粒がスオと一緒に泳ぎ出す。銀河も一緒に泳ぎ出す。そして一緒に泳いだ星や銀河は、一瞬で消えてしまう。その儚さは何よりも私を魅了するのだ。



 しかし学校から帰ってもただひとり、宿題もせずに金魚鉢を見つめる私のことを、お母さんは軽蔑するように見ていた。

「金魚鉢なんて、買ってあげるんじゃなかったわ。」

「これは私のお金で買ったんだよ。」

「お小遣いで買ったんでしょ。お小遣いをあげてるのは私でしょう。もう中学生なんだから、少しは家のことも手伝ってよ。あんたお姉ちゃんなんだから、あんたがそんなだと、妹に示しが付かないってわかんない?」

「…………。」

「そんな真っ黒い水なんて見てても、何が楽しいんだかわかりゃしないわ。なんでもいいけど、食器は洗っておいてよね。」

 お母さんの言っていることが私には分からなくて、それでもお母さんが言っているのだから、それは正しいのだろうと思う。お母さんは私よりも妹をかわいがるけれど、それはそういうものなのだ。たぶん、どこの家でも、そうなんだろう。

 だから私は、明日もこの家で生きていくために、食器を洗わなくちゃならない。

「スオ、またあとでね。」

 スオから離れて、私は部屋を出る。台所に立ち、お母さんと、お父さんと、妹と、それから私、家族四人の食器を洗う。

 食器を洗いながら、ひとりぼっちで宇宙を泳ぐスオのことを考えると、胸が張り裂けそうになる。いつだってそうだ。学校へ行く時にだって、私は気が違いそうになる。

 食器を洗ったら、私は一目散に金魚鉢の前に座る。お母さんもお父さんも、もう私にあまり関心を寄せていないみたいだった。両親は小さな妹と三人で、テレビを見ながら笑っている。

 私のこの真っ暗な部屋のなかで、その真っ黒の金魚鉢だけが明るく仄光っている。私のこの何もない木製の机の上だけをやわらかい黄色で照らしている。スオの尾ひれや、肉瘤や、銀河や、ヴォイドや、星が反射して、一際に目立つハイライトがつぶつぶと揺れている。ロウソクでも蛍光灯でも、ましてや彗星でもない、それはまぶしい宇宙の光だ。黒い水が揺れ、星がきらめく、金魚が泳ぐ。金魚が泳ぐ。黒い水は回る。銀河群がちりちりと光を削られてゆく。スオが光を食べる。

「おいしそう。」

 私が呟くと、スオは自慢げに私の目の前を横切る。

「ねえ、私もあなたと一緒に、泳げない?」

 スオはふいとそっぽを向く。きっと私は、彼に好かれていないのだろう。けれどそれは構わないのだ。私が彼を好きだというそれだけが、いまの私の確かさを証明していると思う。この金魚鉢を割れば、途端に宇宙が部屋を満たして、私は彼と泳げるようになるだろう。けれどそうすると、私はそこから出られなくなる気がして、やはりそうはしない。太陽系が整然と並んでひとつのまとまりを作るように、あるいは地球と月がいまはまだ離れているように、私とスオはこの関係で丁度なのだ。

 この黒いアクアリウムは私の宝物だ。いつまでも見飽きることはない。だから私はそれを十億年も百億年も見ていたかったけれど、しかしある時になって、私の部屋に入ってきた妹が言う。

「ねえ、おねえちゃん。その金魚鉢、あたしにちょうだい。」

 十四歳の私はいつの間にか十六歳になっていて、少し年の離れた妹は、両親に甘やかされて育っていた。妹はお母さんに言えばなんでも願いが叶うと思っていたし、金魚鉢だって買ってもらえただろうけど、妹が欲しがったのは、私の金魚だった。

「ダメよ。これはおねえちゃんの宝物なんだから。お母さんなら買ってくれるんじゃない?」

「でもあたし、その金魚がいいな。」

 妹に悪意はないのだと思う。ただ私が大切にしている金魚が、とても良いものに見えているのだろう。

 妹は家族からの拒絶に慣れていない。私が拒んだことで、少し泣きそうになっていた。

 そこで母がやってくる。母はいつも私の味方にはなってくれない。

「おねえちゃんなんだから、我慢しなさい。」

 そういって母は、私から金魚鉢を取り上げた。

「ちょっと、それは私が買ったのに!」

 私は少し反抗したけれど、しかし心の片隅で、母が出てきたということはもうあの金魚鉢は私のものではなくなってしまったのだと、ほとんど諦めのように感じていた。

 高校生の私は少しだけ外の世界を知ってしまった。金魚だけじゃなく服にも化粧にも興味があったし、まわりの友達とも話を合わせないとやっていけないし、妹がスオを世話してくれるなら丁度いいだろうと、スオに言い訳を重ねるようにして、最後に一晩だけ一緒に過ごさせてもらうよう約束し、私は金魚鉢を奪われることに納得した。

 スオは私に少しの未練も感じていないのだろう。スオとの最後の夜にも、彼は流星をその口で捕らえ、宇宙を泳ぎ回っていた。

「離ればなれになっちゃうね。」

 私はコンと金魚鉢を叩く。しかしスオは少し身じろぎしただけで、すぐにそっぽを向いてぷかぷかと泳いでいた。

 ああ、彼と過ごす夜はこれが最後なんだ。

 そう思うと、私は少しだけ、宇宙を泳いでみたくなった。

 金魚鉢の中の黒い水を両手にひとすくい、わずかな宇宙を部屋のフローリングに垂らすと、そこから少しずつ宇宙が広がっていく。

 広がった宇宙に、私は右脚を一歩踏み入れる。すると私の右脚は途端に宇宙と一体になった。右脚から体が浮き上がり、うまくバランスを取ろうともがくにつれ、左脚も宇宙になる。

 私の体はきらきらと、つぶつぶと、銀河や暗黒物質をまとい、体にして、あの素晴らしい宇宙にいた。あるいは宇宙だった。

 私は宇宙になることで、そもそもは私が宇宙なのだと気づく。宇宙というのは曖昧なものを曖昧なまま内包している。きっと私たちに体があるのは、私たちが確かさを求める何かだからだ。体が私の曖昧さを忘れさせてくれる。宇宙が私が曖昧なものだと思い出させてくれる。

 これはあまりにも心地よい体験だ。まだバランスはうまくとれないけれど、私は宇宙におぼれて死ぬのもよいと思った。

 ――そう思いはしたけれど、しかし、そうはならなかった。

 金魚鉢から飛び出してきたスオが私の横で流星を食べるのを見て、私はこの宇宙でスオとやっていけるか、少し不安に思ったのだ。

 すると途端に私の両脚から宇宙が流れ落ちる。次第に体は沈み、そのまま私はフローリングに降り立って宇宙浸しになった部屋を認識するや、家族が目覚める前にここを掃除をしなきゃならないと思った。

 スオは金魚鉢に戻り、素知らぬ顔でたゆたっていた。



 翌朝、私の部屋の金魚鉢は、妹の部屋に移された。

「ありがとうおねえちゃん。あたしこれ、大事にするね。この子のお名前はなんていうの?」

「彼はスオって言うのよ。大事にしてね、殺しちゃイヤだよ。それから、絶対に金魚鉢を割っちゃダメだからね。」

 妹は大きくうなずき、喜んだ。私の言葉をきちんと聞いているのかはわからなかった。

 それから妹は何日も部屋の金魚鉢をずっと眺めて、そこから離れなかった。

 宇宙なんてものが身近にあると、人の考えや理性だなんてものはたやすく綻んでしまう。あの宇宙が私を放課後の愚者にしたように、妹は学校にも行かず、ただただ毎日、金魚鉢を眺めていた。

 私は高校生になって、中学生の時とは違って友達もできたし、勉強もしてるし、バイトもはじめた。

 世間のいろいろなことに触れると、ある日私は家族のことを嫌いになっているんだと気づいた。

「ねえ、あんたのお母さんちょっと変だと思うよ。家族も。」

 友達のその言葉は無遠慮にも聞こえたが、それは私を心配してくれているのだというのは分かった。

 母は確かに、人の気持ちを慮れない。私と妹の扱いもまるで違う。家事だって、食事の用意と掃除以外はほとんど私がしている。母とはよくケンカをするようになった。それに対して父は何も言わない。ここ最近で、父とまともな会話をした記憶がほとんどない。でも母と、父と、妹は、まるでちゃんとした家族のように振る舞っている。

 ――いや、家族のように振る舞っているのではなく、きっとあれが家族で、私だけが家族ではないのかもしれない。

 それでも時々、私は妹に頼んで一緒にスオのことを眺めさせてもらう。会話なんてほとんどないけど、どちらでもなく、時々短い言葉のやりとりがある。

「お姉ちゃん、学校は楽しい?」

「うん、ほどほどにね。」

「金魚を眺めてるのと、どっちがいい?」

「うーん。金魚のほうかな。」

「ふうん。……ねえ、前に金魚鉢を割っちゃいけないって言ってたけど、なんで?」

「そうね……まだ難しい話かもしれないけど、溜まった宇宙をこぼしちゃうとね、宇宙はどんどん広がって、この部屋の中を全部宇宙にしちゃうんだよ。そのうちこの家を宇宙で飲み込んでしまうかもしれない。宇宙はなんでも受け入れてくれるから、きっとそこは気持ちの良い空間なんだと思うけど、でもそれをしちゃうと、最後には自分まで飲み込まれてしまうんだよ。」

「……むずかしくてわかんない。」

「美味しいものが食べられなくなるかもしれないってこと。」

「それはこまった。」

「そうでしょう。」

 一億年くらい金魚を眺めていると、やがて母が夕食のために妹を呼びに来た。すると母は私と妹が一緒に居るのを嫌な顔で一瞥する。しかし私にも早く夕食に来いと言う。あまり一緒に夕食を食べない私だけど、そういう日は、私を入れて食卓を囲む。私がそこにいると会話もなくて、ひとりのほうが気楽にご飯を食べられるけれど、それでも呼ばれた以上は食卓に加わるようにしている。堅いダイニングチェアは何年も使っているのに、いつまでも座り慣れない心地がした。

 家に居るのに、居場所がない。妹と私の何が違うのかは分からないけど、きっと何かが違い、大きな差があるのだろう。

 誕生日にプレゼントやケーキなんかなくていくらかのお金だけを渡されたり、家族旅行に行くときも私の都合なんかは考えてもらえなくて置いて行かれたり、晩ごはんに呼ばれなかったり、私だけがお手伝いをしたり、私だけが怒られたり、妹だけが褒められたり、金魚を取り上げられたり。

 いつも私だけ。そんなものはもうたくさんだ。

 そして私は、家を出ようと思った。



 けれど私は高校生だった。

 お金を稼ごうという結論になった。

 私は高校でいくつかの資格を取って、地元の小さな工場の事務員としてバイトに出た。幸いにも勉強の成績は良い方だったけど、大学には行かないつもりだ。みんなにはもったいないと言われたが、私にとっての第一の目的は家を出ることだった。

 結局高校二年生の終わり頃には、私は家を寝泊まりする程度の場所にしか使っていなかった。時々顔を合わせる母から小言を言われるけど、「ごめんなさい」と返すだけにしていた。

 それからしばらくそういう生活を続けて、高校三年生の冬になる頃にはバイトにも慣れて、お金もほどほどには貯まったと思う。

 ある日バイト先でお世話になっている社長に、卒業後は就職すると伝えたら、このまま正社員にならないかと誘われた。正直いい会社だったし、高校生ながら働かせてくれたという恩もあったけど、私はそれを断った。

「すみません社長、私、地元を離れたくて就職するんです。あまり親と関係が良くないので……。」

 そういう家族とのいざこざを話すと、社長は「もしよかったら」と、隣県にある会社を私に紹介してくれると言う。出来過ぎた話にも思えたけど、それに甘えることにした。そこは社長のお兄さんの会社で、いまの会社よりも大きくて、社員寮もあるという。

「私、卒業したら家を出ていくから」

 そう母に伝えたのは年の明ける前、三年生の冬休みのことだった。

「……出て行くって、どこに。」

「働く場所。」

「は? なに勝手に決めてんの? 家のことはどうすんのよ。」

「お母さんがやんなよ。お母さんなんだから。」

「親に向かって何て口を利いてんのよ! なんの相談もしないで勝手に決めて! 誰が育ててやったと思ってんの!」

「この家で育ったし、お母さんたちに育てられたよ。でもここで育てられたから、出て行くんだよ。お母さん、私のこと邪魔そうにするからさ。ごめんね。」

「……なによ。被害者ぶらないでよ。あんたそうよね。時々そうやって、全部お母さんが悪いみたいな目で私のこと見てくるよね。私が産んでやったのに、そういう恩も知らない顔してさ。」

「知らないよ。なにいってんの?」

「私がこんな風になったのも全部あんたのせいなのに。口答えもなくただただ憐れむみたいにお母さんのこと見てるもんね。しかもその目元、本当に嫌になるわ。」

 母の口ぶりはほとんど独り言のように聞こえた。……いや、母は私と話すとき、いつも独り言か、見えない誰かに向かって話しているようなときがある。ケンカするときだってそうだ。

 ――私は母と分かり合うことはできないのだろう。

 母の次の一言で、私はそう思った。

「あんたを産んだこと、後悔しかないわ。」



 母にそう言われてから、家を出るまでの数ヶ月の記憶はほとんどない。どうやって生きていたのか、あまり定かじゃない。ずっと泣いていたような気もするし、いつも通りだった気もする。

 いくつか憶えていることは、卒業式のことと、父から聞かされた話だ。

 卒業式も終わり、私が家を出る予定日の前日、普段は寡黙な父から突然近所の喫茶店に呼び出された。

 人の少ない喫茶店で「君には、悪いことをしたと思う」と、父は長い話をはじめた。

 話は一時間くらいあっただろうか。その話はまるで独白で、聞いているだけで体の隅々に溶けたなまりが溜まっていくような気怠さを感じた。テーブルの上には手を付けられていないコーヒーが二つ、冷めた黒い液体に、私はスオの尾ヒレがなびくのを見た気がした。

 父の話は、母と私のことだった。

 話によるとつまり、私は母の娘だけど、父の娘ではなかった。

 母は昔、不本意に私を身籠もった。そして私を身籠もったと分かった時には、もう私を棄てることができない状況になっていたらしい。

 やむなく私を産んだ母は、それでも私を育てるつもりでいた。

「しかし君には、母さんを身籠もらせた男の面影があるそうだ。」

 そう父は言って目を伏せ、言葉が一瞬途切れた。私から目を逸らしたということは、多分、父もその男のことを知っていたのだろう。

「……母さんは君の母親としての責任感と、その男の面影に、耐えられなくなったんだろう。僕は少しの支えになればと、母さんと結婚したんだ。君の父親になろうと思って結婚をした。でも……僕は君の父親にはなれなかった。」

 君を娘だと、思うことができなかった。そう付け足して、父はジャケットの胸ポケットから何かを取り出し、テーブル上に置いた。

 通帳と印鑑だ。

「これは君の本当の父親が、君のために寄越したものだ。私たちは手を付けられない。君が自由に使って良いものだ、受け取りなさい。」

 私は言葉を失った。

 私は父から父になれなかったと告げられ、母は母になりきれなかったと伝えられ、私は娘でないと知らしめられて、ああ、この人たちは私のことを切り離したいんだろう。「そんなものいらない」と、私はテーブルの上を見つめながら言葉を振り絞る。「お母さんたちに、何かしてあげたら? 三人は家族なんでしょう? いつも三人のことみてたから知ってるよ」本当は私を家族にしたかったから、その憎いお金を使えなかったんでしょう? 私を家族にするつもりだったから、そのお金に頼らないで私を育ててくれたんでしょう? でもやっぱり家族にできなかったから、それを私に突きつけてるんでしょう?

 ――ただの一度も、この人たちと家族になんてならなければよかった。家族という宇宙の星々は近すぎたり、遠すぎたりする。ぶつかり合うと壊れてしまうし、遠すぎると離れてしまう。それでも何かを産んで、回すそれが秩序だとしたら、きっと私たちの間にはもう、正気を保つ金魚がいない。私はいま、何か別の力で家族という宇宙から切り離された。

 私たち家族は、あらかじめ金魚を取り上げられた水槽だったのだ。

「君が幸せになることを祈っている。」

 そう言って席を立とうとする父よりも先に私は立ち上がった。

 そしてその顔面に、テーブルの上のコーヒーカップと通帳と印鑑とミルクポットとなんやかやを代わる代わるに投げつけ、最後に悲鳴のような叫びをぶつけた。

「私だってあんたたちが幸せになってくれればいいと思ってるよ! さようなら!」

 コーヒーまみれの父を置きざりにして、私は喫茶店を飛び出した。

 私の家族だった人たちには、私がいない場所で勝手に幸せになって、勝手に死んで欲しいと思う。そしてそれを私に知られず、私もそれを知らず、ただただ消えてしまいたいと思う。

 走る私にはなんの景色も見えなくて、暗闇をゆく心地だったけど、それでも家の場所だけは分かっていて、すぐにたどり着いてしまった。

 家には部屋に籠もる妹だけがいた。

 私は勢いその部屋に押し入ると、彼女が眺めていた金魚鉢をつかんで持ち上げる。そしてその重みに一瞬よろめいたけれど、無我夢中に金魚鉢そのまま床に叩き付けようとした。

「ダメ! 金魚が死んじゃう!」

 私を止めたのは、妹のその言葉だった。

 ――冷静になって動きを止めると、途端に汗が噴き出して、息が切れていることに気づいた。

 妹がその丸い目で、真っ直ぐに私を見ている。

 私はふらつきながらも、どうにか金魚鉢を元の場所に置くと、そのまま崩れるように座り込んだ。

「おねえちゃん泣いてるの?」

 座り込む私のそばに妹もしゃがみ込み、不思議そうにそう尋ねる。私は目の辺りを拭うが、それが汗なのか涙なのか分からない。金魚鉢の方に視線をやってみると、スオが相変わらず口をぱくぱくとさせながら泳いでいる。

 ふと、私の体に何かがしがみついてきた。

 脇を見ると、妹が私のことを抱きしめていた。

「……なにしてるの?」

「誰かが悲しいときはこうしてあげると良いって、お母さんから教えてもらったの。」

「…………。」

 誰かから抱きしめられたのは、これが初めてだった。

「泣かないでおねえちゃん、泣かないで。」

 妹がその小さな体で私を包み、その小さな手で頭を少しだけ撫でてくれる。

 私は妹が言うように、泣いているのだろう。

 妹の調子を見るに、あんな両親だけど、私みたいな悪い子を育てるばかりじゃなかったということだ。

 それだけで私は少し、救われた気持ちになった。それはほんの少し、消えてなくなりたいという気持ちを、小さく抑えられるくらいには。

 ――ああ、彼女に金魚をあげてよかった。

 宇宙をあげてよかった。

 私と妹のあいだには、スオがいるのだ。

「ありがとう、ちょっと元気が出たよ。」

 うまく笑えてるのかも分からないけど、私は妹にほほえむ。

「私は家を出て行くけど、スオと、お母さんたちのこと、お願いね。」

「うん、わかったおねえちゃん。」

「……元気でね。」

「うん。おねえちゃんもね。」

 私は妹の頭をふわりと撫でて、スオの目の前で金魚鉢をこつんと指で叩いて、それが別れの挨拶とばかりに、妹の部屋から自分の部屋へ帰る。

 そして両親に書き置きの手紙をしたため、ほんのわずかな最後の荷物を鞄に詰めると、着慣れない服を脱ぐようにして家を出た。



 それからしばらくは慌ただしい日々が続き、私はあまり家のことを思い出さなかった。

 鈍行列車で二時間、県外とは言えそれほど遠いとも言えない町に引っ越してきたけれど、その二時間の距離は私とあの人たちとを永遠に遠ざけてくれるとさえ思えた。

 最初はきつかった仕事も少しずつ慣れてきて、なんとかやっている。入社当初は事務方だったけど、最近営業の部署に移って、やりがいも増えてきた。前のバイト先の社長も時々連絡をくれるし、会社の人たちもいい人たちばかりだ。

 高校の時の友人たちとも時々連絡を取って、半年に一度くらいは会うけれど、みんな大学生だから、私は一人だけ蚊帳の外にいる感じだ。少し寂しいけれど、それでも前よりは楽しく生活ができていると思う。寮とは言っても一人暮らしは思ったよりも楽だし、なんの不便もない。

 これまでの生活がなんだったのかと思うくらい、生きるのが楽になった気がする。

 家を出た私を、あの人たちはどう思っているだろうか。電話の一つも掛かってこないのだから、きっと健勝にやっていることだろう。

 そうやって平穏な日々を過ごし、一年また一年と年を重ね、気付くと私は二十五歳になっていた。

 会社ではまだまだ若手だけど、かわいい後輩もついて最近はますます仕事が楽しい。

 お金にも余裕が出てきたから、私は春になって社員寮を出て、少し広い部屋に引っ越した。引っ越し祝いという名目で会社の同僚や後輩がお酒を飲みに来て、その時は楽しかったけれど、いざ一人になると部屋は思ったよりも広く、がらんとしている。

 あの家のこともすっかり振り切ったころ、私はもういちど、金魚を飼おうかと思案していた。



 ――母から突然の電話があったのは、ほんの少し部屋の広さにも慣れた頃だった。

「あんたのせいよ!」と、電話口の母の叫びを聞くと、途端に嫌な汗がどっと噴き出た。

 もうこれからあの人たちに会うことなんて、誰かが死ぬとき以外にはないと思っていたのだ。

 狼狽を悟られないように、私は少し強い口調で返した。

「なんの話か知らないけど、突然叫ばないでよ。なんの用事? 忙しいから手短にお願い。」

「こんな時に忙しい忙しいって、お父さんみたいなこと言って、あんた私がどんだけ大変な思いをしてるか分かってるの? 勝手に家を出て連絡も寄越さないで!」

「なに? 文句の電話なら切るよ?」

「自分勝手はやめて!」

「勝手してるのはお母さんでしょ。なんでもいいから用事を話して。」

「あんたの金魚のことよ。」

「――それはもう私のじゃないでしょ。」

「あんたがあの金魚鉢を残していったから、あの子がおかしくなっちゃたのよ! 私たちの子なのに! どうしてくれるの!」

「あの、待ってお母さん。もうちょっと具体的に言ってよ。」

「言ってるでしょ! とにかくはやく帰ってきなさい! 一度くらいお母さんの言うことをきいたらどうなの! もう嫌よ私、こんなことならずっと独りでいればよかったわ……もう……。」

 どうやら電話口の向こうの母は、泣いているようだった。

 私は返事のしようもなくなって、軽はずみに「じゃあ、来週の連休には一度顔を出すから」なんてことを言って電話を切る。

 連休には顔を出す――なんて、どうしてそんなことを言ってしまったのか。

 心配になった、と言うのが正直な気持ちだ。

 多分それは、やはり家族だからかもしれない。

 母が情緒不安定だろうと、父が血の繋がらない朴念仁だろうと、妹が引きこもりだろうと、それが一度でも私の家族になってしまった人たちなのだ。

 私は家族を切り離したと思っていた。心の隅にはいつもあの人たちの顔があったけど、やがて霧のように晴れると思っていた。

 しかし母からの電話一本で、私は十八歳の時の私になる。十六歳の私になる。十四歳の私になる。あの人の子供だった時の私になる。それが家族というつながりだというなら、そうなのだろう。

 まるで呪いだ。あるいは因果だ。遠ざかっても遠ざかっても、家族という引力が私たちを引き寄せ合う。壊れてしまっても、金魚がいなくても、宇宙は薄く薄くなりながら、本当の無になるまで存在してしまうのかも知れない。

 そして私は、母の電話があった次の休日に家へ帰った。

 鈍行の電車でおよそ二時間、新しい町に向かうあのときにはとても長く感じたけれど、家に帰るには、あまりに早く感じた。

 すぐに家に帰ればいいのだけど、家に帰れば愉快な気持ちはなくなると思い、私はまずお世話になった社長に挨拶に行き、いくらかの友人に会い、家に帰ったのは夕方になってからだった。

 私の気持ちなんてお構いなしに、今日は良い天気だった。沈もうとする赤く丸い太陽が、金魚のこぶ頭みたいだった。

 私はインターホンを押して「帰りました」と告げ、その向こうから聞こえた母の「開いてます」の一言で家の中に入った。

 玄関から短い廊下を抜け、リビングへ向かう。よく見ると家の中は私が居たころよりも煤けて汚れているように感じた。家の掃除は母がしていたけれど、今はあまり掃除をしていないのかも知れない。

 リビングには電気もついておらず、開けっ放しのカーテンからわずかに入る夕焼けだけが部屋の中を赤く照らしている。母はリビングのソファに腰掛けていた。父は仕事に行っているのだろう、姿はない。

「ただいま」と私は儀礼的に言うけれど、母は答えずに視線を私にくれると、顎でダイニングテーブルの方を指した。促されるままダイニングチェア座ると、少しだけ憂鬱な気持ちを思い出した。

 母は何も言わず、どこを見ているかも分からないまま、ソファの上で身じろぎひとつしない。心なしか、少しやつれているようにも見えた。

 沈黙が続き、耐えられなくなって、私は口を開く。

「変わりない?」

 母はゆっくりと私の方を見ると「変わったわよ」と吐き捨てるように言った。

「あんたが勝手にいなくなって、大変だったわ、家のこととか、あの子のこととか。お父さんは何もしないし。……あんたは元気にやってんの?」

「え。あ、うん。まあなんとかやってるよ。」

「そう、ならいいわ。」

 私が元気にやっているかなんて、母から聞かれるとは思いもせず、私は家に来た目的を一瞬忘れかけてしまった。

「こないだの電話」と、私は本題に入る。「あの電話はなんだったの? なにかあった?」

「……あの子のことよ。」

 母は電話の時のように怒鳴りもせず、大きな声も出さず、淡々と話した。

「あんたがあの子にあげた金魚鉢、あれをあの子が気に入りすぎて、高校にも入らずにずっと部屋で眺めてたのよ。ご飯も食べない、あんたみたいに手伝いもしてくれない。それでこのあいだ、あんまりひどいから、金魚鉢を取り上げようとしたの。そうしたら、金魚鉢を落として割っちゃってね。あの子の部屋から、家の中の半分くらいが宇宙になっちゃったわ。それであの子、もう部屋の中から出てこなくなっちゃった。返事くらいはあるけど、もう私たちには姿を見せてくれなくなっちゃった。部屋にも近づけないし、もうどうしたらいいか分かんないわ。もう私、ダメだわ。あの子のことも、可愛がるだけじゃダメだった。あんたのことも愛してやれなかった。憎くて憎くて仕方がなかった。親になんて、なっちゃいけなかったのよ。」

 ――この人はもう、自分が母であることを放棄したように見えた。

 私は心配になって、母に聞く。

「ねえ、金魚鉢を割ったって言ったけど、金魚はどうしたの?」

 母は感情なく答えた。


「棄てちゃったわ。もう生きてなかったもの。」


 その一言で、私は席を立った。

 私が立ち上がったのは妹の部屋へ向かうためだ。

 リビングを出る私の方を母は一度も見なかったし、声も出さず、立ち上がりもしなかった。

 埃っぽい廊下を抜けると、薄暗いはずの家の奥が、ほのかに明るいような気がした。母が言うように、家の半分が宇宙になっているのだろう。

 やがてちゃぷちゃぷと、黒い水が足元に当たるのが分かった。

 真っ黒で、しかし明るい宇宙の中で、私は重力のことを忘れそうになる。しかしここはまだ家の中で、私が宇宙に囚われなければ、そこを歩くことができた。

 それでも妹の部屋につくと、そこはもう全くの宇宙だった。宇宙に囚われ、私は重力から見放される。上も下も分からずに私の体はくるくる回る。ここは妹の部屋のはずだけど、扉も壁もなく、銀河が膜のように空を覆っている。おそらくここはヴォイドの中なのだろう。星はなく、塵やガスがわずかにたゆたっていた。

「おねえちゃん。」

 不意に、私の全身を包むように、妹の声がした。

 どこから聞こえたのかは分からないけれど、それは確かに聞こえた。

「どこにいるの?」と私は大きな声で語りかける。しかしそれに対する返事はなく、妹はただ何度も「おねえちゃん、ごめんなさい」とだけ言った。

 声は変わらず、どこからでも同じように聞こえている。まるで宇宙がそのまま響いているようだ。

 私は妹に問いかける。

「ねえ、もしかして宇宙になっちゃったの?」

 妹は黙っていて、私はそれが返事だと受け取った。

 なるほど、いま私が居るこの宇宙が、妹なのだろう。

 宇宙なんていう黒い水があって、アクアリウムになって、そんなものが部屋の中にあると、人間なんてものはたやすく綻ぶ。

 ましてその黒い水に触れてしまうと、やがて人間は宇宙になる。――いや、人間は自分が宇宙なのだと気づいてしまう。

 妹は多分、宇宙になるという心地よさに抗えなかったのだろう。

「ごめんなさい」と言う妹に、私は「謝らなくていいよ」と言う。

 彼女は何も悪いことをしていない。金魚鉢を割ったのはお母さんだし、そもそもそれを家に持ち込んだのは私だ。

 私たちが宇宙になれるのは、そもそも私たちが宇宙だからだ。私を内包した宇宙を内包した妹を内包した宇宙を内包した私だってそこには存在する。

 人間は基本的に自分が宇宙であることに無自覚だ。それが人間という理性なのだと私は思う。――宇宙になりかけた私は、それをなんとなく知っている。

 宇宙に触れると、人間という理性は綻んで、宇宙という理性に改めて仕付けられる。だけど、その逆もおそらくある。

 私の脚は宇宙から再び人間になった。それは多分、スオが私の横をかすめて流星を食べたあのとき、私が宇宙の理性に触れることに疑問を持ったからだ。

 人間は宇宙だし、きっとまた宇宙も人間としてある。そうであるのなら、妹だってきっと大丈夫だ。妹は曖昧さと確かさの狭間にあって、私がそれを思い出させてあげればいいのだ。

 私は妹に語りかける。

「ねえ、どうして謝るの?」

 妹の声が私を包む。

「……ごめんなさい。」

「んーん、大丈夫だよ。でもどうして謝ってるのか教えてくれると、おねえちゃんうれしいな。」

「……あのね。」

「うん。」

「おねえちゃんがくれた金魚を、殺しちゃったの。殺さないでって言われたのに、殺しちゃった。お母さんに怒られて、金魚鉢を割られて、スオが弱っていくのに、あたし助けてあげられなかったの。スオはお母さんがもっていっちゃったの。」

「そっか……。」

「――あたし、お母さんにひどいことも言っちゃった。お母さんのこと大嫌いって。」

「…………。」

 妹の声は次第に目の前に近づいているように聞こえた。少しずつ少しずつ、四方八方から集まるように、声が近づいている。

「おねえちゃんに、お母さんとスオのことをよろしくって言われたのに、約束も守れなかった。ごめんなさい、おねえちゃん。ごめんなさい、ごめんなさい、助けて、おねえちゃん……。」

 妹は泣きそうな声で、目の前にいた。

 しかしそこに姿は見えない。おそらくまだ宇宙なのだろう。でもこうして私の目の前まで来てくれた。

 私は手を差し出す。

 目の前の宇宙が恐る恐る私の手を掴む。

 私はその宇宙をひっぱり、胸に抱き寄せた。

 ――誰かを抱きしめたのは、これが初めてだった。

 抱き寄せた宇宙は少ししゃくり声を上げながら、どうやら泣いているらしかった。

 その肩は震え、華奢な抱き心地のそれは、よく見えないけど確かに私の妹だ。

 自分の服が黒く濡れるのも気にせず、私は妹にこう提案した。

「この家を出て、おねえちゃんと一緒に暮らさない?」

 このままこの家に居たんじゃ、きっと妹は――この家族はダメになってしまう。もはや金魚は棄てられてしまった。けれど私と妹のあいだには、まだ金魚がいるかもしれない。

 妹は小さく肯いたような気がした。

 私も含め、うちの家族はみんな、よく泣くなと思った。



 私は妹の手を引いて、部屋中にある黒い水を踏みしめながら、再び部屋を出る。廊下のほとんどは変わらず宇宙だけど、薄暗い廊下の奥にはフローリングも見えている。

 宇宙とは違う家の明かりもあって、ようやく妹の姿形も見えてきた。妹は真っ黒な姿で、銀河や星のつぶつぶが揺れて、どうにか人のかたちをした宇宙としてそこにいる。その体からはポタポタと黒い水が垂れて、フローリングを汚していく。私は妹の手を引いたままお風呂場へ向かう。

 家の浴室はなんだか久しぶりで、少し他人の家のお風呂を使わせてもらうような後ろめたさを感じた。

 蛇口をひねり、少しぬるめのシャワーを出す。私は服を着たままで、しかしもう服は宇宙で真っ黒だったし、あまり気にしないことにした。

「シャワー、頭からかけるから、目はつむっててね。」

 妹のかたちは影絵のようにしか見えなかったけど、仕草は伝わるもので、その小さな手をぎゅっとして身をこわばらせてるのがわかった。

 私は妹の頭からシャワーのお湯をかける。

 お湯は妹の体を伝い、黒くなりながら、排水口に流れていく。私の足許にも薄くなった宇宙がぶくぶくと気泡を立てながら渦巻いていた。

 妹の頭にシャンプーをかけてごしごしと泡立てると、しかしシャンプーの泡はすぐに消えて、シャンプーを継ぎ足しながら、私はその長い髪を念入りに洗っていく。私ももう泡だらけだ。

「大丈夫、すぐにきれいになるよ」と私は言う。

「ありがとう」と妹が頷く。

 次に妹が顔を上げると、鏡越しではあったけど、ようやくその顔を見ることができた。妹は少しだけ大人になって、でもまだまだあどけない顔をしている。その顔は少し赤らんで、泣きはらした後のようにも見えた。

「おねえちゃん、ごめんなさい、ありがとう。」

 妹は少し申し訳なさそうにそう言った。

 妹の体から宇宙をすっかり洗い流して、私たちはお風呂場を出る。裸の妹に服を着せ、私も持ってきていた服に着替えて、それからまずは、ふたりで家の掃除を始めることにした。

 まず雑巾とモップで廊下の宇宙を拭き取り、バケツに溜め込んでいくことにする。

 妹は宇宙の中に行くのは怖かったみたいだったから、バケツの中を捨ててもらったり、雑巾を洗ってもらったりしていた。

「おねえちゃん、宇宙を水の流れるとこに捨てちゃっていいの?」

「いいよ、宇宙ってのはどこにでもあるものだからね。」

 宇宙は広すぎて、廊下を拭くのも一苦労だ。ざっと五十億年くらいはふたりで作業をしていただろうか。廊下をあらかた拭き終わって妹の部屋の中に入ろうとしたとき、どうやら何かの気配を察した母が私たちのことを見にきた。

 母は最初、私たちが何をしているのか分かっていないようだったし、妹が部屋の外にいることを少なからず驚いていた。

「……なにやってんの?」

「掃除。」

「なんで急に。やめてよ。」

「やめないよ。家んなか汚れてたじゃん。私がいた頃はお母さんちゃんと掃除してたのに。」

「…………。」

「生意気言うようだけど、そういうの、やめないほうがいいと思うよ。」

「……そうね。そうかもしれないわ。」

 そう言うと母は私たちと一緒に部屋の中に入り、しゃがみ込んで宇宙を拭き取りはじめた。

「……どうしたの、お母さん。」

「別に。三人でやった方が早いでしょ。それにもともとは私の仕事よ。」

「ふうん。」

 母は基本的にきれい好きなのだと思う。

 私もどちらかといえばそうだ。

 妹はどうだろう。

 三人で掃除をしていると、まるでまともな家族みたいだ。

 私たちにほとんど会話はない。でも妹が水を捨てに離れたとき、母が話しかけてきた。

「ねえあんた、あの子のこと洗ってくれたんでしょ。」

「うん。」

「そう。ありがとう。」

「べつに。これくらい。」

 母が話しかけてくれたので、私はそれをきっかけに、妹のことを伝えておくことにした。

「ねえ、お母さん。」

「なに?」

「私、あの子と一緒にしばらく暮らそうと思うの。」

「…………。」

「家を出て、ちょっと違う空気を吸ってみた方が健康にいいかもと思って。」

「――そうね。それがいいかも知れないわ。この家はちょっとまだ、埃っぽいもの。」

「うん……。」

「家のこと、きれいにしとくわ。妹のことをお願いね、あんた、おねえちゃんなんだからね。」

「うん、まかしといて。」

 やがて妹が戻ってくると、また私たちの会話はなくなった。

 母は掃除の手際が良く、黙々と三人でやると家の中はあっという間にきれいになり、家の中の宇宙は排水口に流れて消えた。そして家の中はようやく当たり前の姿を取り戻した。

 きれいになった廊下を見て、母が言う。

「あんた、今日は泊まっていくんでしょ?」

「え。まあどこかに。」

 この家に泊まるつもりはなかったのだけど、母はそう思わなかったみたいだ。

「あんたの部屋、ほとんど出てった時のままにしてるから。布団は押し入れに入ってるから。」

「あ、はい。……ありがとう。」

 まるで当たり前の母親のように、母は振る舞う。さっきから母は別人になってしまったようだ……とは思わなかった。さっきの無感情な母も、急に母親らしくなった母も、感情的になって支離滅裂な電話を掛けてくる母も、金魚を棄ててしまった母も、おそらく私が知っている母のそのままだ。私の気持ちも考えず、自分勝手で気まぐれで、感情の上がり下がりが激しいのは昔からだ。

 ――そう、昔からなのだ。私はそれをよく知っている。私は昔を思い出すから自分の部屋になんか泊まりたくないのに、母は母親らしくそこに泊まれと言うのだ。



 自分の部屋へ入ると、そこは確かに、見覚えがある部屋だった。本当に私が出て行ったときのままだ。少しほこりが溜まっているけど、何年も放置していた部屋には見えない。きっと誰かが、まめに掃除をしてくれていたのだろう。

 母は妹を連れてリビングへ行った。久しぶりに宇宙から出てきた娘に話したいことがあるのかもしれない。私はしばらく自室に待機して、それを聞かないことにする。

 私は押し入れの中の圧縮袋から布団を出して床に敷き、そこに寝転んでみた。すっかり日は落ちて、電気を消した部屋の中を、外から漏れる外灯と月の明かりだけが照らしている。夜空の星が見えるほど暗いわけでもなく、私は無意識にスオのいる明るい金魚鉢を探したけれど、もちろんそんなものはもうどこにもない。それは私が母に奪われ、妹に差し出したものだ。そしてそのせいで、結果的にスオは死んでしまった。私はスオを殺してしまった。あるいは宇宙を一つ壊してしまったのだ。

 ――スオのことを手に掛けたわけじゃないのにそう思うのは、私が家を出たあの日、スオの金魚鉢を叩き壊そうとしてしまったからだと思う。あの時の直情的な衝動を思い返すと、私にも母と同じ血が流れているのだと感じてしまう。

 私は早くこの家から出ていきたい思ったが、しかしその気持ちはドアのノックに止められた。ノックの返事もしないまま、ドアは勝手に開かれる。

「ごはん。」

 私の気持ちを遮ったのは母だった。

 母は部屋のドアのところから布団の上の私を見ていて、しかし目を合わせることなく言う。

「ごはん、もうすぐできるから。お父さんも帰ってくるし、呼んだらきなさい。」

 言うだけ言って、母はドアも閉めずに立ち去る。廊下の電気の明かりが部屋の中に差し込むと、窓の向こうはより暗く見えるようだった。

 その後、三十分もしないうちに父が帰ってきて、妹もいて、私もそこに加わり、遅い夕食をとる。

 食卓はテレビも付けずに静かで、みんなが気まずそうにしていたせいだろう、私は昔よりも居心地の悪い感じがしなかった。むしろ少し楽なくらいだった。

 夕食が終わり、私は家に居た頃のように家族四人分の食器を洗う。途中から妹も手伝ってくれて、それはすぐに終わった。

 母と父が何かを話していたけれど、私はその会話も聞かないことにした。



 翌日の昼過ぎに、私と妹は母に別れを告げた。父は気付いたときには仕事に出ていて、私は昨晩に二言三言ばかり言葉を交わしたくらいで、父との会話はほとんどなかった。

「それじゃあお母さん、また来るから」と私は言う。妹を預かる以上、私はまた何度もこの家にこなければならない。

 母は何か言いたげだったが、最後に「体には気を付けなさい」とだけぽつりとこぼすように言うと、私たちが立ち去るのを虚空を見るように眺めていた。

 そして私は電車に乗って自分の家に帰る。今度は妹を連れて。

「おねえちゃん、これ。」

 私は電車の中で妹から一通のふくらんだ封筒をもらった。

「なにこれ?」

「昨日の夜、お父さんからあずかったの。おねえちゃんにって。」

 受け取った封筒を開けると、中にはあの通帳と印鑑が入っていた。通帳の表紙には大きく茶色いシミがあり、うっすらと乾いたコーヒーのにおいがした。

 父はあの時に私が突き返したこれだけを、また改めて渡してきたのだろうか。よく見ると封筒の中にはもう一枚、手紙が入っていた。


『あまり気持ちの良いお金ではないかもしれませんが、

 二人のこれからのため、なにかの助けになるはずです。幸せを願っています。

 時々、ふたりで顔を見せてくれると嬉しいです。

 姉妹で仲良く、元気に過ごしてください。

 父より』


 ――なんとも言えない手紙だったが、父はあれからも通帳をちゃんと保管していたらしく、正直あのお金が手に入るのはとても助かった。出所はともかく私のお金らしいし、生きていくため、四の五の言ってる場合ではない。姉妹ふたり、これから一生懸命にやっていかなくちゃいけないのだ。

 私が変な顔をしていたのだろう、妹が話し掛けてくる。

「お父さんからのお手紙、なんて?」

「時々は顔を見せにきてくれって。」

「へー。はーい。」

「昨日、お母さんとお父さんから何か言われた?」

「……うん、良い子にするようにって。」

「そう。良い子にできる?」

「できる。がんばる。」

 昨日まで妹は宇宙にあてられて少しおかしくなっていたけれど、それでもやっぱりあの時の妹のままだと思う。

 母から見送られ、父から手紙をもらい、妹と電車に乗ってこれから暮らす私の家へ向かい、それでなんとなく、家族とはこんなものなのだろうかと思う。

 母のことは、やはり変わらずに憎いと思う。父のことは本当に最低だと思う。余計なお世話かもしれないけど、妹のことは少し憐れだと思う。そしてそれはそのまま、私に対する家族の気持ちだろうと思う。

 私は私のことを自らの後悔だと吐き捨てた母を許していないし、私の幸せを願うと言いながら自らの不幸をなすりつけてきた父のことを許していない。そしてあんなふたりの中に妹を置いておけないと思う。傲慢で自分本位な人たちのことを、私は好きになることもできない。嫌い続けることしかできない。

 それでも今になってひとつ、分かることがある。

 それはたぶん、母は母として在りたかったのだろうということだ。父は父として振る舞いたかったのだろうということだ。そして私も姉として妹を助けなければと思う。

 だから私たちは家族になったし、そういう気持ちが私たちを家族という結びつきにしてしまった。

 大人になって初めてあの家に帰って、両親に会って、それでも私は子供だったと思う。残念ながらあの人たちの子供だ。だからあの家に帰ることになったのだ。

 あの家には生まれたときの私がいて、幼かった私がいて、十代の私がいる。そして私が生まれたときの母も、私が幼かった頃の母も、私が十代のときの母も、やはりあそこにいる。父も妹も同じようにそこにいる。

 何かを許したわけでも、何かを許されたわけでもなく、憎悪や愛おしさを含んでしまって、私たち家族はある。

 私たちはもはや家族として存在してしまった。家族というかたちになってしまった。

 宇宙と同じだ。家族として存在してしまったのだから、家族として営むしかないのだ。家族というかたちになってしまったのだから、営みの先に崩れていくしかないのだ。それがどんなかたちであれ、かたちは絶えず変化して、最後には崩れてしまうものだ。

 しかしその変化の過程の中で、あるいはあらかじめ金魚を取り上げられた私たち家族の宇宙の中で、一瞬間だけ生まれたこの当たり前の家族のような偶然の日があったなら、少しは良かったと思うこともできる。あるいは金魚のいないこれが私たち宇宙の秩序だとして、この壊れきった何かの先で、最後には帳尻が合うようになっているのかも知れない。金魚がいなくなることも、秩序の流れだったのかもしれない。

 家族にならなければ良かったけど、家族になってしまった以上、家族らしくありたかった。私のそんな気持ちが、少しだけ満たされた気がする。

「ねえ、お姉ちゃんは、なんで私のことを助けてくれたの?」

 不意に、妹が少し緊張した面持ちで訊ねた。

 私は少し迷ったけど「これくらいなんでもないよ。家族だもん」と答える。

 妹は少し複雑そうな顔をした。

「どうしたの?」

「あのね、おねえちゃんはあたしのこと、家族だと思ってくれるの? あたし、お母さんとかお父さんが……おねえちゃんのことをどう思ってるかなんて、知らなかったの。」

「……お母さんたちから、なにか聞いたの?」

「んーん……。でもお母さんたちが話してるのを聞いてて、なんとなくわかっちゃった。あたし、なんでおねえちゃんが出て行ったのか、最初は分からなかった。そういうものだと思ってた。でもお母さんたちが話してるのを色々聞いて、おねえちゃんは家族をやめたかったんだって思うと、悲しかった。」

「…………。」

「それでもおねえちゃんが帰ってきてくれて、こうやって私のことを助けてくれて、それはうれしかった。お母さんもお父さんもおねえちゃんも、あんまり仲良くないし、仲良くできないかもしれないけど、あたしはみんな好きだよ。いちどこんな風に離れてみないといろいろダメになるかもだから、おねえちゃんがあたしを連れ出してくれて、本当にうれしいよ。」

 ――やっぱり、妹に金魚をあげてよかったと思う。

 妹にとっては悪いことばかりだったけど、それでもこうしてふたりで話ができるのは、スオのおかげだ。あるいはまだ、私たちのなかに、金魚はいるのかもしれない。



 それから二時間、電車に揺られながら妹としゃべったり、通帳に記載されている金額に驚いて桁を数え直したりしながら、あっという間に私の住む町に帰ってきた。

 そして駅から出ると、ようやく長い日が終わったと思った。

 私たちはお昼過ぎには家に帰り着いて、妹の僅かな荷物をほどいてから、簡単なごはんを作ってふたりで食べる。それから少し休憩したあと、これからの生活に必要なものを買いに外に出ていろいろと買い物を済ませた。

「夜は何か美味しいものを食べよう」なんて話をしながら、最後にホームセンターに寄ったとき、ふとペットコーナーにいる金魚が目に入った。

 様々ある水槽の並びの中に、こぶ頭のかわいいらんちゅうが一匹だけ泳ぐ水槽がある。ゆらゆらとたおやかに、けれどひとり寂しそうに、それは泳いでいた。

 実家のスオが死んでしまって、妹もそれを気に病んでいて、実家に帰る前には金魚を飼おうかと思っていたけれど、いまはとてもそんな気持ちにはなれなかった。

 ――私はスオを助けられなかった。私が身勝手に彼を飼わなければ、あるいは母に言われ、自分も忙しいからと妹に簡単に渡さなければ、スオをいたずらに死なせることもなかったのかも知れない。

「スオのこと」と私は妹に話し掛ける。「スオのこと、きちんとお弔いをしてあげようね。」

「うん、あたしもそうしたい。」

 妹が手を握ってきたので、私もそれを握り返す。

 これから、ふたりでの生活がはじまる。

 さしあたって、私たちは花を買って帰ることにした。



/了

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